ーー桜みたいに儚い非日常が、私の人生にはらはらと落ちてくる。それは運命の螺旋かーー
4月上旬だというのに、外はなんて肌寒いのだろう。
今朝ニュースで今日は冷えると聞いたから、服装はどうしようかと悩んだ。
考えた末、季節と温度感に合わせて少しあったかめの、春らしい淡い白のプルオーバーパーカーを着た。
ボトムスは雨粒みたいな白いドット模様が入ってる、ブラックのロングスカートを合わせてみた。
我ながらいい感じに気分が上がるコーディネートだと思った。
おしゃれをしてどこに出かけるかというと、別に大したところではない。自宅から少し離れたスーパーに出かけるだけ。それでも、身なりから明るくいかないと、なんだか気分がつまらない。休みくらいは私服でいないとね。
それに今日は土曜で週末セールをやっていた。少し安くなるから、買い物するにはちょうどよかった。買ったものは歯磨き粉とティッシュ。
ストックが少なくなってるのに気づいて買いに行き、その帰り。私は透明なビニール傘をさして下を向いていた。
小学校近くの通学路へと進み、ふと見上げると雨が満開に咲いたばかりの桜を散らしている。
咲き誇っているのに、たやすく散ってしまうのがあまりにも綺麗でひたすらに切なさがこみ上げてきた。
家の近くであるこの学校は母校ではないけど、それでも小学生の頃をぼんやりと思い出す。
いい思い出ばかりではなかった。 でもまあ、それなりに楽しかったかも。⋯⋯あの時、いじめられたりしなければ。
ばしゃんと微かに音がして、水たまりを踏んでいたのに気がついた。お気に入りの白いスニーカーが汚れないよう気をつけていたはずなのに。ああ、もう。昔なんか思い出すからだ。数歩後ずさりして、ふと目線を落として水たまりを見ると、散った桜がゆるりと浮かんでいた。つい最近、咲いたばかりなのにもう散ってるなんて。季節ってゆっくり動いてるようにみえて、早足で過ぎていくものなのか。いや、雨で桜が早く散ったせいで尚更、そう感じるのか。雨は嫌だな。はあ、と長い息をもらしてしまう。そのあとに大きく息を吸うと、なんともいえない空気を鼻に感じた。濡れたアスファルトの湿っぽい臭いと、春の芽吹きが生い茂る青々とした香りが混じってる。それは胸の奥にゆるく絡んでは、つっかえた。どうにか気を紛らそう。そう思い、しとしとと雨が傘に当たる音に耳を澄ませてみた。なんだか雫たちが耳元で楽しそうに歌っているみたい。その雨音に合わせてリズムよく歩いてみたら、湿っぽい気持ちが少しばかり和らいだ。そうしてるうちに気がつくともうすぐ、アパートにたどり着くところ。家の近くのごみ捨て場の前を通り過ぎようとして、立ちどまった。一瞬、刺激臭と違う上品で柔らかな香りがしたような。ゴミが置かれているであろう方向を向くと、違和感の正体がそこにはあった。今日は確か生ごみの日。まだ回収されていないゴミ袋が沢山置かれていて、網がかかっているところに、ぽつりと人が居た。大きなカラスかと勘違いしてしまった。実際は捨てられているみたいに、男の人が雨に打たれていた。私は驚きすぎて、2度見ならぬ3度見をして、はっとした。え⋯⋯だ、誰!?何でこんなところに人が、居るの。意識、意識はあるんだろうか。思わず声をかけた。
「あの、大丈夫⋯⋯ですか」男の人は口を開かないまま、私をじっ、見ている。高そうなグレーのスーツと黒のワイシャツは雨がたっぷりと染み込んでいて、ずぶ濡れ。今にも雨のせいで、消えてしまいそうな儚さ。なんだかさっき見た、水たまりに漂う散った桜みたいな、憂いな雰囲気。それに、あまり見ない綺麗な顔立ちをしていて、つい見惚れてしまった。だけど、ふと男の人は大丈夫か心配になった。バッグの中のスマホを出して警察に連絡しようとしたけど⋯⋯スマホをタッチする手が直前で止まった。男の人の顔に少しだけ、見覚えがあるような気がしたから。きっと、気のせいかもしれないのに。スマホ画面から目を反らし、再び男の人を見ると、目が合った。男の人の瞳はまるで、弱い子猫がすがるみたいだった。雨が顔に流れてるせいか、泣いてるように見える。悲しげな顔は、私の心を強く揺さぶった。男の人のことは何一つ分からない。だからこそ、何があったのか好奇心のようなものが芽生えてしまった。いつもの私なら、警察に通報して終わりだった。でも今日はなんだか、自分の殻をやぶるじゃないけど、雨に打たれた人を助けようと思った。そうさせるだけの不思議な魅力が、この男の人にはあった。正直なところは怖いし、びっくりだった。でもどうしても、男の人のことが知りたい。目が合った時に、一瞬微笑んだように見えた気がしたから。謎だな思えば思うほど、男の人のミステリアスさに惹かれる。
一瞬、ためらいがあったけど私は息をゆっくりはいた後、声をかけた。「うち、すぐ近くなので、少し休んでいきませんか⋯⋯?」男の人はそっと静かに頷いた。よくよく考えたら、知らない男の人を一人暮らしの女のアパートに連れて行くなんて危ないかもしれない。けど風邪引いたら大変だし。まあ、人助けということで⋯⋯いい、よね。だって、どうしてもこの人凄く気になるから。家までどうにか連れていき、なるべくふわふわのバスタオルを探して見つけた。手渡そうとしたけど男の人は玄関に、ただ立ち尽くしていて、全く手も動かない。どうしたものか。しかし服装によく注目してみるとボタンが外れかけていたり、なくなってる部分があってスーツがボロボロだった。それなのにそんな見た目に反して、甘いのにスッキリとした香りがしてる。きっと香水だ。まるで真夏に喉が渇いた瞬間、1滴も残さずに貪りたくなるような、爽やかな柑橘のよう。そんな魅力的な香りをまとった男の人が一言呟いた。薄い唇から放たれた、ほんの微かな声だった。「⋯⋯ごめんなさい」⋯⋯えっと?何がだろう。ごめんなさいと言われても心当たりがないから、困る。ああーーきっと迷惑かけたと思ってるのかな。
「別に迷惑だとか考えないでください。私が勝手にしたことですし。だから謝らなくてもだいじょう⋯⋯ぶ!?」正直、連れてきて良かったのかと、ちょっと不安で。でも、どうにか笑顔をつくり声をかけたけど、男の人は急に崩れ落ちた。もしかして、具合が悪くなったのかな。すぐに自分も屈んで気にかける。顔を覗き込むと、口の端が切れていて、凄く痛そうだし、顔に少し泥が付いてる。「本当は会っちゃいけなかったのに。ごめんなさい。だって、だって⋯⋯」今にも泣きだしそうな悲しげな目で、そんなことを言うものだから、不安になる。突然の言葉に、どうしていいか全く分からず、返す言葉が見つからない。でもさっき出会った知らない人。話を聞いていいのか、迷う。とにかく、なるべくそっとタオルで拭いてあげよう。男の人の髪がしっとりと濡れている。波みたいなウェーブがゆるくかかっている黒髪に、タオル越しに触れようとした瞬間、私の手を掴んできた。手は氷のよう。優しく乾かそうとすれば、いとも簡単に溶けてしまうんじゃないかってくらい冷たい。ひんやりした手にびっくりして、声を上げてしまった。ぬるい温度であろう私の手を、ゆっくり自分の頬へ持っていった彼が呟いた。「花ちゃんが⋯⋯大好きだから」さっきまで震えてた声だったのに、はっきりと私の名前を呼んだ。自分の心臓が熱を帯びて、細かく鼓動を刻み出す。ーーねえ、全然知らない人なのに、私の名前をなんで知ってるの。家のポストには『高橋』と苗字しか書いてないはず。あなたは、一体?
「どうして、私の名前⋯⋯」謎の多い男の人が自分に触れてきた。それに私の名前を知ってるのも不審で怖かった。反射的に手を引っ込めようとしたけど、彼の手はびくともしない。「もう少し、こうしていたい」そう言われてしまっては、どうすることも出来ない。何分間、そのままでいただろう。私の体温をゆっくりと確かめるみたいに、ただじっと動かずにいる。男の人がありがとう、もう大丈夫と言って手を離すまで、時間が永遠に感じた。距離があまりにも近くて気まずい。何も会話が思いつかなくて私は黙っていた。男の人も沈黙していた。明かりがぼんやりとした玄関。しんとした空気感の中で、私の頭の中は分からないことだけが巡っていた。あなたは何者?何故、私の名前を知ってるの。ゴミ捨て場にボロボロの姿で居るなんて。何から聞いたら、混乱した頭がすっきりと落ち着くのか考えていた。私の心臓の音はうるさかった。私は答えを探し求めるように、男の人を見つめた。男の人の目は、はっきりと私を捉えてる。その視線は、先ほどの悲しさが残りながらも情熱を宿してるように感じられた。「花ちゃん。僕が誰だか、知りたい?」知りたいも何も、知らなければならない。助けてしまった以上、何も聞かないまま返すわけには、どうにも納得出来ないし。「あなた、名前は」男の人は首を少し傾けながら、名前、ね。と言った。「その辺の野良猫みたいに名前なんて、ないよ」「えっ」思わず戸惑い、声を上げてしまった。私が困惑したのに気づいたのか、冗談だよと彼はクスクスと笑った。もしかして、私をからかってたのか。でも、その笑い方に覚えがあった。その笑い方は⋯⋯
「⋯⋯もしかして、セツ君?」ーー小学校3年生の時、同じクラスだった、藤堂雪那君。すっごく泣き虫。だから、気の強い男子グループにからかわれて、イジメられてた。私はセツ君を放っておけなくて、助けた。すると、今度は私がターゲットになった。教科書やノートを捨てられたり、体操服をびちゃびちゃに濡らされたりなんてこともあったな。ついには学校に通えなくなった。でも、不登校になってすぐに父親の転勤で引っ越すことになったーー「うん、そうだよ。よかった、すぐに気づいてくれて」セツ君のその微笑み、思い出すなあ。昔、仲良くしてた時に笑ってくれた顔みたい。小学校の教室でおしゃべりしたり、お絵かきしたりとか。セツ君、結構絵が上手だったな。私は女の子の手を隠すような絵ばかりだったけど、セツ君はちゃんと手も描いてた。放課後、一緒にこっそり寄り道して帰ったり。秘密の道を見つけるんだっていって、大きな段差から、勇気を出して飛び降りたり。久しぶりに同級生に会えたから、思わず笑みがこぼれる。「うわあ!懐かしいな。セツ君、何年ぶりだろうね」「⋯⋯20年かなあ」さらっとセツ君が言った数字に少し驚いた。20年!?そんなに経ってたっけ?ちょっと信じられない。小3って確か8歳か9歳。私は今年で28歳になる。だから、もうそれくらい経ってたのかな。「⋯⋯何年も、ずっと探してたよ。花ちゃん」その言葉には、力が込められているように聞こえた。私を探してた?セツ君が、どうして。私をずっと探してたってセリフが、まるでドラマのワンシーンみたいで、胸がときめいてしまいそう。
「ずっと、あの時のこと謝りたかった。イジメられてた僕を助けてくれたのに、僕は⋯⋯弱いやつだったから、花ちゃんを救えなかった。ごめんなさい」伏し目がちに、優しい声で謝ってきた。あの時のことはセツ君が悪いわけじゃない。私が助けたのだってまちがいじゃない。いじめてきたあの子たちが悪いんだから。「ううん。いいの。だって私もセツ君も間違ってない。悪いのはイジメてきた奴らだよ。だから気にしない、気にしない」「気にしない、か⋯⋯探してた理由は謝りたかったのもあるんだけど、他にも、あるんだ」「他にも?」「大人になってから、花ちゃんに会いたくてたまらなかったんだ。⋯⋯でも、僕はもう昔とは違うから、会おうにもためらいがあって」ーー会いたくてたまらなかった?それって、告白みたいに聞こえる。気のせい、かな。いや、それよりも気になることが。僕はもう昔とは違うって?確かに小学校の頃よりずーっとかっこよくなったよ、セツ君。でも、きっとそういう意味じゃないよね。「昔とは違うって、何が?」「ん。ひ・み・つ」にかっと笑ったセツ君。昔もそんな笑い方してたことあったけど、今のセツ君はなんだか、色っぽい。だから、思わずドキッとしちゃった。でも瞳の奥が揺れていたのを私は、見逃さなかった。きっと何かを隠してる。 だからこそ、聞かずにはいられなかった。「ねえ、どうしてゴミ捨て場なんかに居たの」少し間が空き、どうしてって?それはね⋯⋯とセツ君が笑った。「花ちゃんに、拾ってもらいたかったからかも、ね」私は、またからかわれたのかと思った。「え?冗談止めてよ」セツ君は表情を変えず、半分は本当だよと言った。たった半分しか、本当じゃないんだ。⋯⋯もう半分は?
ちゃんと聞きたいと思った。「私、コーヒーか何か淹れてくるよ。詳しく話聞きたいから。ちょっと待ってて。はい、ちゃんと乾かしてね」タオルを手渡したら、今度は受けとってくれた。少し髪を乾かしたあと、セツ君はコーヒーはいいや、帰るねと言った。「ありがとう。また助けてもらっちゃったね」「え、もう帰るの?ゆっくりしていってもいいよ。それにまだ濡れてるし」「ん、大丈夫だよ。助けてくれただけで充分」「なんか逃げようとしてない?」セツ君は、首をゆっくり横にふった。「違うよ、今はまだ言いたくないだけ。ごめんね」やっぱり教えてくれないんだ。「ちょっと、まだ帰らないほうが」「また、会いに行くから」よほど帰りたそうにしてるものだから、私はこれ以上引き止められないなと諦めた。本当はたくさん聞きたいのに。なんにも分からないなんて。なんだか心の柔らかい部分が、きゅっと痛い。セツ君が私にタオルを渡して、玄関のドアを開けた。外はまだ、しとしと雨が降っている。私は名残惜しい気持ちがありながらも傘を渡した。指先が触れた。その一瞬で引き留めたくなったけど、傘を受け取るとするりとかわされた。セツ君は必ず返しにいくよと微笑んで帰っていった。
その微笑みはやっぱり、昔とは違う。陰を宿しているようだった。口角が上がってたけど、目は笑ってなかった。止まない雨がまるで、セツ君の今の心なんじゃないかと心配になった。わたしの気にしすぎならいいんだけど、やっぱり不安。もし、セツ君が何かを抱えていたら、小学校の時みたいに助けたいな。⋯⋯大人になったセツ君の手、私より大きくて、やけに冷たかったな。セツ君の手の感触がまだ、私の手に残ってる。20年の時の長さと彼の変化を、感じた気がした。別れ際にセツ君が呟いてた。「⋯⋯僕は、君のために変わらなければならなかったんだ」さっきとは違う、胸を焦がすような強い不安が襲う。雨に紛れて、聞こえた言葉が気になる。セツ君の背中に何も聞けない。ーーもどかしい。あの頃とは、明らかに違うセツ君に何も聞けないまま、謎だけが残る。胸に居座る、不可解。その不可解をじっくり味わうしかない。ドアを開けっぱなしにしたまま、ぼうっと雨音をただ聞いていた。頭の中で、何度も別れ際の言葉が流れている。また会えるその時、彼の本心にそっと、触れてみたい。また、あの懐かしい純粋な笑顔に戻ってくれたら、いいのにな。⋯⋯きっと雨のせい。何一つ乾かないままだ。私の心さえも。
ちゃんと聞きたいと思った。「私、コーヒーか何か淹れてくるよ。詳しく話聞きたいから。ちょっと待ってて。はい、ちゃんと乾かしてね」タオルを手渡したら、今度は受けとってくれた。少し髪を乾かしたあと、セツ君はコーヒーはいいや、帰るねと言った。「ありがとう。また助けてもらっちゃったね」「え、もう帰るの?ゆっくりしていってもいいよ。それにまだ濡れてるし」「ん、大丈夫だよ。助けてくれただけで充分」「なんか逃げようとしてない?」セツ君は、首をゆっくり横にふった。「違うよ、今はまだ言いたくないだけ。ごめんね」やっぱり教えてくれないんだ。「ちょっと、まだ帰らないほうが」「また、会いに行くから」よほど帰りたそうにしてるものだから、私はこれ以上引き止められないなと諦めた。本当はたくさん聞きたいのに。なんにも分からないなんて。なんだか心の柔らかい部分が、きゅっと痛い。セツ君が私にタオルを渡して、玄関のドアを開けた。外はまだ、しとしと雨が降っている。私は名残惜しい気持ちがありながらも傘を渡した。指先が触れた。その一瞬で引き留めたくなったけど、傘を受け取るとするりとかわされた。セツ君は必ず返しにいくよと微笑んで帰っていった。
「ずっと、あの時のこと謝りたかった。イジメられてた僕を助けてくれたのに、僕は⋯⋯弱いやつだったから、花ちゃんを救えなかった。ごめんなさい」伏し目がちに、優しい声で謝ってきた。あの時のことはセツ君が悪いわけじゃない。私が助けたのだってまちがいじゃない。いじめてきたあの子たちが悪いんだから。「ううん。いいの。だって私もセツ君も間違ってない。悪いのはイジメてきた奴らだよ。だから気にしない、気にしない」「気にしない、か⋯⋯探してた理由は謝りたかったのもあるんだけど、他にも、あるんだ」「他にも?」「大人になってから、花ちゃんに会いたくてたまらなかったんだ。⋯⋯でも、僕はもう昔とは違うから、会おうにもためらいがあって」ーー会いたくてたまらなかった?それって、告白みたいに聞こえる。気のせい、かな。いや、それよりも気になることが。僕はもう昔とは違うって?確かに小学校の頃よりずーっとかっこよくなったよ、セツ君。でも、きっとそういう意味じゃないよね。「昔とは違うって、何が?」「ん。ひ・み・つ」にかっと笑ったセツ君。昔もそんな笑い方してたことあったけど、今のセツ君はなんだか、色っぽい。だから、思わずドキッとしちゃった。でも瞳の奥が揺れていたのを私は、見逃さなかった。きっと何かを隠してる。 だからこそ、聞かずにはいられなかった。「ねえ、どうしてゴミ捨て場なんかに居たの」少し間が空き、どうしてって?それはね⋯⋯とセツ君が笑った。「花ちゃんに、拾ってもらいたかったからかも、ね」私は、またからかわれたのかと思った。「え?冗談止めてよ」セツ君は表情を変えず、半分は本当だよと言った。たった半分しか、本当じゃないんだ。⋯⋯もう半分は?
「⋯⋯もしかして、セツ君?」ーー小学校3年生の時、同じクラスだった、藤堂雪那君。すっごく泣き虫。だから、気の強い男子グループにからかわれて、イジメられてた。私はセツ君を放っておけなくて、助けた。すると、今度は私がターゲットになった。教科書やノートを捨てられたり、体操服をびちゃびちゃに濡らされたりなんてこともあったな。ついには学校に通えなくなった。でも、不登校になってすぐに父親の転勤で引っ越すことになったーー「うん、そうだよ。よかった、すぐに気づいてくれて」セツ君のその微笑み、思い出すなあ。昔、仲良くしてた時に笑ってくれた顔みたい。小学校の教室でおしゃべりしたり、お絵かきしたりとか。セツ君、結構絵が上手だったな。私は女の子の手を隠すような絵ばかりだったけど、セツ君はちゃんと手も描いてた。放課後、一緒にこっそり寄り道して帰ったり。秘密の道を見つけるんだっていって、大きな段差から、勇気を出して飛び降りたり。久しぶりに同級生に会えたから、思わず笑みがこぼれる。「うわあ!懐かしいな。セツ君、何年ぶりだろうね」「⋯⋯20年かなあ」さらっとセツ君が言った数字に少し驚いた。20年!?そんなに経ってたっけ?ちょっと信じられない。小3って確か8歳か9歳。私は今年で28歳になる。だから、もうそれくらい経ってたのかな。「⋯⋯何年も、ずっと探してたよ。花ちゃん」その言葉には、力が込められているように聞こえた。私を探してた?セツ君が、どうして。私をずっと探してたってセリフが、まるでドラマのワンシーンみたいで、胸がときめいてしまいそう。
「どうして、私の名前⋯⋯」謎の多い男の人が自分に触れてきた。それに私の名前を知ってるのも不審で怖かった。反射的に手を引っ込めようとしたけど、彼の手はびくともしない。「もう少し、こうしていたい」そう言われてしまっては、どうすることも出来ない。何分間、そのままでいただろう。私の体温をゆっくりと確かめるみたいに、ただじっと動かずにいる。男の人がありがとう、もう大丈夫と言って手を離すまで、時間が永遠に感じた。距離があまりにも近くて気まずい。何も会話が思いつかなくて私は黙っていた。男の人も沈黙していた。明かりがぼんやりとした玄関。しんとした空気感の中で、私の頭の中は分からないことだけが巡っていた。あなたは何者?何故、私の名前を知ってるの。ゴミ捨て場にボロボロの姿で居るなんて。何から聞いたら、混乱した頭がすっきりと落ち着くのか考えていた。私の心臓の音はうるさかった。私は答えを探し求めるように、男の人を見つめた。男の人の目は、はっきりと私を捉えてる。その視線は、先ほどの悲しさが残りながらも情熱を宿してるように感じられた。「花ちゃん。僕が誰だか、知りたい?」知りたいも何も、知らなければならない。助けてしまった以上、何も聞かないまま返すわけには、どうにも納得出来ないし。「あなた、名前は」男の人は首を少し傾けながら、名前、ね。と言った。「その辺の野良猫みたいに名前なんて、ないよ」「えっ」思わず戸惑い、声を上げてしまった。私が困惑したのに気づいたのか、冗談だよと彼はクスクスと笑った。もしかして、私をからかってたのか。でも、その笑い方に覚えがあった。その笑い方は⋯⋯
「別に迷惑だとか考えないでください。私が勝手にしたことですし。だから謝らなくてもだいじょう⋯⋯ぶ!?」正直、連れてきて良かったのかと、ちょっと不安で。でも、どうにか笑顔をつくり声をかけたけど、男の人は急に崩れ落ちた。もしかして、具合が悪くなったのかな。すぐに自分も屈んで気にかける。顔を覗き込むと、口の端が切れていて、凄く痛そうだし、顔に少し泥が付いてる。「本当は会っちゃいけなかったのに。ごめんなさい。だって、だって⋯⋯」今にも泣きだしそうな悲しげな目で、そんなことを言うものだから、不安になる。突然の言葉に、どうしていいか全く分からず、返す言葉が見つからない。でもさっき出会った知らない人。話を聞いていいのか、迷う。とにかく、なるべくそっとタオルで拭いてあげよう。男の人の髪がしっとりと濡れている。波みたいなウェーブがゆるくかかっている黒髪に、タオル越しに触れようとした瞬間、私の手を掴んできた。手は氷のよう。優しく乾かそうとすれば、いとも簡単に溶けてしまうんじゃないかってくらい冷たい。ひんやりした手にびっくりして、声を上げてしまった。ぬるい温度であろう私の手を、ゆっくり自分の頬へ持っていった彼が呟いた。「花ちゃんが⋯⋯大好きだから」さっきまで震えてた声だったのに、はっきりと私の名前を呼んだ。自分の心臓が熱を帯びて、細かく鼓動を刻み出す。ーーねえ、全然知らない人なのに、私の名前をなんで知ってるの。家のポストには『高橋』と苗字しか書いてないはず。あなたは、一体?
一瞬、ためらいがあったけど私は息をゆっくりはいた後、声をかけた。「うち、すぐ近くなので、少し休んでいきませんか⋯⋯?」男の人はそっと静かに頷いた。よくよく考えたら、知らない男の人を一人暮らしの女のアパートに連れて行くなんて危ないかもしれない。けど風邪引いたら大変だし。まあ、人助けということで⋯⋯いい、よね。だって、どうしてもこの人凄く気になるから。家までどうにか連れていき、なるべくふわふわのバスタオルを探して見つけた。手渡そうとしたけど男の人は玄関に、ただ立ち尽くしていて、全く手も動かない。どうしたものか。しかし服装によく注目してみるとボタンが外れかけていたり、なくなってる部分があってスーツがボロボロだった。それなのにそんな見た目に反して、甘いのにスッキリとした香りがしてる。きっと香水だ。まるで真夏に喉が渇いた瞬間、1滴も残さずに貪りたくなるような、爽やかな柑橘のよう。そんな魅力的な香りをまとった男の人が一言呟いた。薄い唇から放たれた、ほんの微かな声だった。「⋯⋯ごめんなさい」⋯⋯えっと?何がだろう。ごめんなさいと言われても心当たりがないから、困る。ああーーきっと迷惑かけたと思ってるのかな。
「あの、大丈夫⋯⋯ですか」男の人は口を開かないまま、私をじっ、見ている。高そうなグレーのスーツと黒のワイシャツは雨がたっぷりと染み込んでいて、ずぶ濡れ。今にも雨のせいで、消えてしまいそうな儚さ。なんだかさっき見た、水たまりに漂う散った桜みたいな、憂いな雰囲気。それに、あまり見ない綺麗な顔立ちをしていて、つい見惚れてしまった。だけど、ふと男の人は大丈夫か心配になった。バッグの中のスマホを出して警察に連絡しようとしたけど⋯⋯スマホをタッチする手が直前で止まった。男の人の顔に少しだけ、見覚えがあるような気がしたから。きっと、気のせいかもしれないのに。スマホ画面から目を反らし、再び男の人を見ると、目が合った。男の人の瞳はまるで、弱い子猫がすがるみたいだった。雨が顔に流れてるせいか、泣いてるように見える。悲しげな顔は、私の心を強く揺さぶった。男の人のことは何一つ分からない。だからこそ、何があったのか好奇心のようなものが芽生えてしまった。いつもの私なら、警察に通報して終わりだった。でも今日はなんだか、自分の殻をやぶるじゃないけど、雨に打たれた人を助けようと思った。そうさせるだけの不思議な魅力が、この男の人にはあった。正直なところは怖いし、びっくりだった。でもどうしても、男の人のことが知りたい。目が合った時に、一瞬微笑んだように見えた気がしたから。謎だな思えば思うほど、男の人のミステリアスさに惹かれる。
ばしゃんと微かに音がして、水たまりを踏んでいたのに気がついた。お気に入りの白いスニーカーが汚れないよう気をつけていたはずなのに。ああ、もう。昔なんか思い出すからだ。数歩後ずさりして、ふと目線を落として水たまりを見ると、散った桜がゆるりと浮かんでいた。つい最近、咲いたばかりなのにもう散ってるなんて。季節ってゆっくり動いてるようにみえて、早足で過ぎていくものなのか。いや、雨で桜が早く散ったせいで尚更、そう感じるのか。雨は嫌だな。はあ、と長い息をもらしてしまう。そのあとに大きく息を吸うと、なんともいえない空気を鼻に感じた。濡れたアスファルトの湿っぽい臭いと、春の芽吹きが生い茂る青々とした香りが混じってる。それは胸の奥にゆるく絡んでは、つっかえた。どうにか気を紛らそう。そう思い、しとしとと雨が傘に当たる音に耳を澄ませてみた。なんだか雫たちが耳元で楽しそうに歌っているみたい。その雨音に合わせてリズムよく歩いてみたら、湿っぽい気持ちが少しばかり和らいだ。そうしてるうちに気がつくともうすぐ、アパートにたどり着くところ。家の近くのごみ捨て場の前を通り過ぎようとして、立ちどまった。一瞬、刺激臭と違う上品で柔らかな香りがしたような。ゴミが置かれているであろう方向を向くと、違和感の正体がそこにはあった。今日は確か生ごみの日。まだ回収されていないゴミ袋が沢山置かれていて、網がかかっているところに、ぽつりと人が居た。大きなカラスかと勘違いしてしまった。実際は捨てられているみたいに、男の人が雨に打たれていた。私は驚きすぎて、2度見ならぬ3度見をして、はっとした。え⋯⋯だ、誰!?何でこんなところに人が、居るの。意識、意識はあるんだろうか。思わず声をかけた。